ことしの本棚13『読んでない本について堂々と語る方法』其の2

期待以上の本でした。今まで読んだ本から10冊選んで下さい、と言われたらこの本は必ず入れます。それほどでした。そして「ことしの本棚7『読んでない本 について堂々と語る方法』」で書いた予想は意外にも当たっているところが多くあり、人間、苦し紛れに書いても意外と正解なこともあるのだと思いました(昔苦しんだ試験なんかだと苦し紛れは苦し紛れにしかならずに撃沈してしまうことが殆どでしたが)。

『読んでない本について堂々と語る方法』(ピエール・バイヤール/大浦康介 訳/筑摩書房)



…本の内部とはその外部のことであり、ある本に関して重要なのはその隣にある本である。したがって、教養ある人間は、しかじかの本を読んでいなくても別にかまわない。彼はその本の内容はよく知らないかもしれないが、その位置関係は分かっているからである。…

例えばこの部分は、「本棚」を重要視するわれわれ社団の観点をバックアップしてくれる文章です。

…一冊の本は、われわれの視界に入ってきた瞬間から未知の本ではなくなる。…一度でも出会ったあとに未知でありつづけるような本はひとつもな い…われわれが話題にする書物は…<遮蔽幕(スクリーン)としての書物>でしかない。…われわれが話題にするのは書物ではなく、状況に応じて 作り上げられるその代替物である。…書物の自己投影的性格…幻想を受け止める器…われわれは、本を読みはじめる瞬間から、いや読む前から、わ れわれのうちで、また他人とともに、本について語りはじめる。…

だいぶレベルの違いはありますが、これらの記述は、僕が想像したことがそれほど違っていなかったという気持ちにせてくれます。

著者は、書物のこうしたポジティブな面だけでない部分にも触れています。

…書物が、知識だけでなく、記憶の喪失、ひいてはアイデンティティの喪失とも 結びついているということは…つねに念頭に置いておかなければならない…ついには書物と出会うために自分自身の狂気と対面する羽目になる…読 書は、何かを得ることであるよりむしろ失うことである…

本を買ったことを忘れる、一度読んだことを忘れる、自分が書いたことを忘れる、自分が書いたか書いていなかったかわからなくなる、自分が書いたものか人が書いたものかわからなくなる、そんな例が出てきて、まるで自分の今と未来を書かれているような気分になってきました。

…個々の書物は、教養というもののひとつの観念全体へとわれわれを導く、この全体の一時的象徴にすぎない。われわれが何年もかけて築き上げてきた、わ れわれの大切な書物を秘蔵する<内なる図書館>は、会話の各瞬間において、他人の<内なる図書館>と関係をもつ。そしてこの関係は摩擦と衝突の危険を孕ん でいる。というのも、われわれはたんに<内なる図書館>を内部に宿しているだけではないからである。われわれ自信がそこに蓄積されてきた書物の総体なので ある。…神話的、集団的、ないし個人的な表象の総体を<内なる書物>と呼びたい。…

<内なる図書館>という言葉と考え方は、(社)本の宇宙にとってもキーワードとなってきそうです。また<内なる書物>という表現も同様です。

…われわれが愛した書物というのは、自分が密かに住んでいて、相手にも合流してほしいと思うひとつの世界全体を浮かび上がらせる…

ということはつまり、僕がここで紹介している本には、僕自身が密かに住んでいるということでしょうか。そしてみんなにも合流して欲しいと思う世界だということでしょうか。そのような気もします。

この本で著者は「読書に没頭してはいけない」という主旨のことを書いています。

…あらゆる読者には、他人の本に没頭するあまり、自身の個人的宇宙から遠ざかるという危険があるのだ。読んでいない本についてのコメントが一種の創造であるとしたら、逆に創造も、書物にあまり拘泥しないということを前提としているのである。…

このあたり、小説でも映画でも芝居でもそしてスポーツでも、すぐに没頭してしまう僕としては難しいところです。著者がこのことを薦めるのは「無意識の一連 の禁忌から自由になれ」と願うからということはわかりますが、没頭しないことの良さより没頭することの面白さを、僕はまだ選びたいと思っています。ですの で、もうしばらく時間が経ってから、何年後かに、またこの本を読んでみたいと思います。その頃には著者の忠告が、すっきりと腹におさまるかもしれません。

ことしの本棚 第13回 針谷和昌)

hariya  2011年2月11日|ブログ