日々本 其の三百三十五「街場の憂国論」

『街場の憂国論』(内田樹/晶文社)

とてつもない勢いで内田樹の本が出版されている。ちょっと積ん読しているとまたすぐ次の本が出てそれも積ん読という負の連鎖(?)に陥りそうなので、いちばん古く積み残したこの本を急いで読んだ。

内田樹の本がどんどん出ている状況は、この著者の本が売れ出した頃に一度あったけれど、それ以来だと思う。本人が大学教授を定年退職して時間ができたからなのか、いや確かこないだ読み始めた別の著書で時間ができると思ってあれもやりたいこれもやりたいと思っていたけれど何ひとつできていない、と書いてあった気がするので、そうでないとすると何なのか。面白さに一段と拍車がかかっている、というのが真っ当な答えが当たっている気がする。

内田樹が本の中で紹介する本は、いつも読みたくる。この本にも『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』(下村治/文春文庫)という1987年に出た本の話が出ていて、このあいだ本屋で見掛けた『アメリカ様』(宮武外骨/ちくま学芸文庫)とセットで買おうかな、なんてちょっとワクワクしてくる。

内田樹の話が多様な分野にわたって面白い理由のひとつが、少しわかる部分がある。
「だから、私は日本政府の「よくわからない」行動を説明できる仮説を立てる。
仮説を立てておけば、どこかで反証事例が「ヒット」するからである。「あ、この読み筋は違っていた」ということが、少なくとも私にはわかる。
違っていることがわかれば、仮説の修正ができる。仮説がないと修正ができない。
自然科学の場合と同じである。仮説の提出/反証事例との遭遇/仮説の書き換え。
その繰り返しである。」

僕がこの本でいちばん、そーそーそーなんだ、今度この話になったらこー言えばいいんだなぁ、と同意しつつ膝をたたいたのはこの部分。
「人間というのは「手抜き」をして失敗したときに、それは「想定外の事態のためで、いかなる人為的なミスもかかわっていない」という弁明を採用すると、その後も同じ「手抜き」を続けることを宿命づけられる。「手抜きのせいで起きた事故ではなかった」と言い張っている以上、もし「手抜き」を反省し、改善してしまえば、事故と「手抜き」の因果関係を認めることになるからである。私たちに罪はないと言い続けるためには、意地でも「手抜き」を続けるしかない。
日本の原発は今そのような呪縛のうちにある。」

そしてもうひとつ、これからやろうとしていることのひとつの指針となる部分があった。
「150人という「ダンバー数」…「ダンバー数」とは「ものを頼める人」の数の上限のことだが、「ものを頼む」ことのうちには、「質問」も含まれる。
「このトピックについては、この人の情報や情報評価は信頼できる」という人がさまざまな分野にわたって150人いれば、私たちの世界認識はかなり精度の高いものになる。」

まだあまり詳しく書けないけれど、いろいろな人の力を借りて新しいものを創ろうといま考えていることがある。そのいろいろな人の人数が150人まで行けば、信頼できるものが創れるというヒントでありお墨付きである。先は長いけれども、ひとつの確実なターゲットができたと感じる。僕にとっては百人力いや百五十人力である。

日々本 第335回 針谷和昌)

hariya  2014年3月24日|ブログ