日々本 其の二百八十三「脳の中の私」

『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?』(前野隆司/技術評論社)

だんだん難しくなってくる。先日読んだ前野教授のも難しかったが、この本はさらに難しいように僕は思う。「ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史」「脳が心(意識)をどのように作っているかがわかってきた!」というコピーが表紙に載っている。脳と心の思想の歴史をひもときながら前野教授の理論がどういう位置づけなのか、伝えたいことはそういうことだとはわかるのだけれど、書いてあることが難しい。

比較的最初の方に出てくる錯視図形「ヘルマンの格子」が面白い。黒い長方形に等間隔で縦横に白い線が走っている、あるいは黒い正方形が等間隔(正方形の1/5ぐらいの幅が隣と開いている)で並んでいる、とも言える図。見ていると白い線が垂直に交わる交差点にグレーの物体が見える。全体的に俯瞰しているとどこの交差点にもグレーがあるように見えるけれど、いざ1つの交差点のグレーを凝視しようと集中すると、その交差点のグレーだけなくなって白いまま。見ると消える。これは不思議である。蜃気楼のようなグレー。「脳の機能によって作り出された」グレーという話である。

社会には意識はないけれど、メディアがエピソード記憶的な役割を果たす。自分の体験をエピソードとして記憶できることが環境適応のために有利だから進化的に生じたに過ぎないささやかな存在が「意識」であるというのが前野教授の説で、それを「受動意識仮説」というのだけれど、そのエピソードを体験している記者やニュースキャスターが、社会における意識のようなものなのかもしれない、という話も面白い。

われわれの選択はすべて幻想で、自分がこれから何をするかは外部との関係によって決まっているに過ぎない。このように世の中はむなしいものだと考える立場をニヒリズム(虚無主義)という。そして前向きのニヒリズムが釈迦の至った悟りの境地だそうだ。これを書きながら「むなしい」を漢字変換してみると「空しい」。なるほど「空(くう)」である。

後半には、斎藤慶典 慶大教授、河野哲也 立大教授という2人とのそれぞれ1対1の対談があって、そこはまた比較的わかりやすくて面白い。河野教授はアフォーダンスの専門家で、「アフォーダンスとは、それに対して動物がかかわり、行動することで、ある出来事が生じるような環境の特性のこと」と話している。以前「アフォーダンス」にとても関心を持った時期があったので、とても興味深く読んだ。

というふうに面白く進んで行く部分も多いのだけれど、全体的にはかなり難しい。そこで思いついたのは、前野教授にインタビューして僕でも100%わかる「受動意識仮説」を書いてみたい、それを自分で読んでみたい、ということである。この本を読んでいる最中に前野教授と会うことがあったので、自分の学のなさを棚に上げて、思い切ってそのことを本人にも言ってみた。すると面白がって下さった。さすが論理をつきつめて悟りの境地に達した人は違うなぁ、と感服。

日々本 第283回 針谷和昌)


hariya  2013年8月17日|ブログ