日々本 其の二百六十三「サッカーに対する共通の愛情」

『ワールドカップの回想』(ジュール・リメ/川島太郎 大空博 訳/牛木素吉郎 監修/ベースボール・マガジン社)

とある図書館を見学させてもらい、その図書館で希望者が持ち帰っても良いコーナーで見掛けて、図書館の許可を得て頂いて帰って来た。1986年の本。1920~1954年までの34年間、FIFA(国際サッカー連盟)の会長を務めた著者によるワールドカップの初期の頃の回想で、新しいものを創っていく過程の面白さが満載。まさに掘り出し物だった。

当初1905年の FIFA パリ総会では「国際サッカー連盟加入の各国サッカー協会所属の国内チャンピオン・チームによる選手権大会を、毎年シーズン終了後に開催する」のがワールドカップの大会規約案だった。代表チームではなく「国内のチャンピオン・チーム」であり、4年に1回ではなく「毎年」だったのである。どちらかというと今のクラブワールドカップ(トヨタカップ)に近い。

ところがこの大会の最初の呼び掛けには「連盟事務局にエントリーがまったく届かなあったのである」。「創立から1年しかたたない連盟は、おそらく各国協会に対して、まだ充分あ精神的な影響力を持たなかったのだろう」というのがその理由だ。「その当時、ヨーロッパの大半の国でのサッカーは依然、マイナーな状態にあったのだろうと思われる」ということで、「依然、マイナー」というところが何とも言えない。

1914年の FIFA クリスチャニア総会では、「国際サッカー連盟は、オリンピック大会のトーナメントが連盟規約に従って行われるならば、これをアマチュア世界選手権として認める」ことを承認したそうだ。さらにアメリカ代表団、スウェーデン代表団が「アマチュア」の言葉を削除するように求めたが却下されたという。これが認められていれば、オリンピックが実質的なワールドカップになりえたと思われるが、幸か不幸か「この総会の終了後間もなく起きた1914年の悲劇的事件(第一次世界大戦)によって、決議はまったく忘れ去られてしまった」という。

当時は「プロフェッショナルと、規定に従うアマチュアとの間に、さらにもう一つ中間的な資格の競技者が存在していた」そうだが、そういう背景もあり、「オリンピックの参加者はアマチュアの選手に限定されていた。したがって、各国の最高レベルの選手を出場させることはできず、真の世界選手権大会にはほど遠かった!」ことで、「国際サッカー連盟は、世界選手権というすばらしいタイトルにふさわしいトーナメントを開催するのは、自らの責務だと考えていた。それはアマチュア、プロを問わず、すべての協会の真の代表チームに門戸を開いた大会であった」ということである。

また当初はワールドカップでなく、世界選手権、あるいはジュール・リメ杯と呼ばれていたそうである。こうして抜き出して行くとキリがないぐらい、創世記のFIFA、ワールドカップの話は興味深い。「通信や交通にも、当時は非常に時間がかかった。大西洋を船で横断することは、多くの人にとって恐ろしい冒険のように思えた」時代。それでも徐々に形になっていったのは、「各国の実力を発揮するこの友好的で真摯な対決を信頼し」「大洋を越え、山脈を越えて、サッカーに対する共通の愛情で結ばれた人たちの連帯」があったからなのである。

「愛」の力から生まれたワールドカップ。賭博やマフィアなど暗黒部分も時たま話題になるサッカーが、それでもなお群を抜いて魅力的なのは、いまだにこの愛の力が継続し、より増大しているように見える純粋さが、大会や選手を通じて表出しているからではないだろうか。

日々本 第263回 針谷和昌)

hariya  2013年7月06日|ブログ