日々本 其の二百三十三「絵とは何か」

『絵とは何か』(坂崎乙郎/河出文庫)

前に書いた本屋のコーナーに並んでいてつい買ってしまう。絵は想像力であり現実世界の外側あるいは遥か彼方に自分の小さな世界をひとつ作るのが絵描きであるという。

「…ロマン主義の時代…ゴヤ…ミレー…ゴッホ…クールベとかジェリコー、ドラクロワとか、ターナー…ヨーロッパの歴史のなかで、この時代だけが、美術と人間のシンポが、ほんとうに足並みをそろえて、未来に向かって緊張している感じが非常に強い…」

「…後期印象派、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンの例を見ても、全部変人であると言われている。つまりはみんな人づき合いが悪い…人づき合いが良くては、絵が描けない…毎日、人とつき合っていたら、自分の想像力なんて展開できない…」

「…結局、絵は想像力であり、個性であり、最後に私は、感覚であると思う…」

「…想像力に一生をぶち込めたら、こんなに幸福な生き方はないと思う…」

先日、とある大学でとあるワークショップがあってお手伝いに行ってきたのだけれど、たまたま僕が担当したグループだけかもしれないが、その大学の学生たちは費やす時間の多寡にかかわらず、自分の「社交」に対して満足している、という傾向があった。

自分と照らし合わせてみると面白いのだが、僕はその調査を事前にやってみて、社交時間そのものがゼロだった。「毎日、人とつき合っていたら、自分の想像力なんて展開できない」と思っている訳ではないが、その大学生たちが想像力を発揮する姿を想像できなかったのは事実である。

「…絵が、「見て」、「感じて」、「読む」というプロセスをたどっているとすると、小説はその逆をたどるにすぎないのではないか…」

「…展覧会というのは、一回や二回見たぐらいではわからない。そのときの時刻、見に行った時間にも関係する…いちばん大切なのは、作品を見る人の側にあると思います。関心の度合いが第一でしょうか。好奇心でもいい…」

「…ふと「ゴッホの絵はすべて読めるのではないか」と思ったのです…」

「…絵は「読まなければいけない」。これが私の考え方です。さらに、読んでいく過程でまちがうことなのです。まちがって、ああ自分はまだやっぱり足りないんだと反省することです…」

「…「エビアン」…よろしい…「セレニテ」…晴れやかさ…」

「…ゴッホ…彼は写真を認めなかった…「素描とは人が感ずることと、できることとの間にあるように思われる目には見えない鉄の壁を貫いて、通路を切り開くことである。」…」

「写真を認めない」という考え方は、以前お話を伺った日本画家の上村淳之氏に共通する。そしてそれは、「絵を読む」ということと繋がっているのではないだろうか。

「何かを見て「いいな」と思っても、それが写真という記録の世界にある場合、「ああ美しいな」と思っている時間がないために、脳裏には残っていません。その場で自分の目でじっと見つめる中で、その世界を自分の脳裏に焼き付けることが必要なのです。もうひとつ、写真というのは無表情だけれど、人間の目には感情がある。そこが大事です。写真は単に真実を写しているだけです。記録として残した、限定された世界にしか展開しないものに頼ってはいけません。生の体験を通して、私たちの目、心眼で見た、そこに展開している美しい世界を作っていくことが重要なのです」(上村淳之)

以下はゴッホが書簡集に残した言葉。それらの言葉を眺めていたら、その言葉にフィットする写真を撮ってみたいなぁ、なんて大それたことを思い始めた。それは何と言うんだろう、われわれ凡人にも創作意欲を催させる言葉、と言えばいいのだろうか。

「雪の中で雪のように光った空」

「空と同じように青い川」

「深い青の空には強いコバルトの青より深い青の斑ら雲」

「黄色い太陽をいただいた黄色い空」

「紺碧の空に沈んだ白と灰色の大きな雲」

「緑とンクの空」

「巨大な黄色い太陽」

「オレンジ色の緑の植物に映える緑の空」

「青空に映えた松」

「空は太陽そのものとほとんど同じくらい明るいクローム黄

日々本 第233回 針谷和昌)

hariya  2013年5月01日|ブログ