日々本 其の二百二十八「錯覚する脳」

『錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だった』(前野隆司/ちくま文庫)

前回『脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説』を読んでみようかなと書いたけれど、僕の場合『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』を先ず読んで、次にこの『錯覚する脳』を読んで、そして『『脳はなぜ「心」を作ったのか』という順番で読むことになると、本が出た順番のまったく逆、新しいものから古いものへと読んで行く形となって、つまり著者の原点へ遡る形の読書になる。

『錯覚する脳』では、冒頭で『脳はなぜ「心」を作ったのか』が紹介されていて、「私たちの「意識」は何ら意思決定を行っているわけではなく、無意識的に決定された結果に追従し、疑似体験し、その結果をエピソード記憶に流し込むための装置に過ぎない、という話だ」と著者自身がコンパクトにまとめ、その流れで「意識はイリュージョンに過ぎない」「私たちが世界を知る手段であるように考えられる五感は、むしろ世界を作り出している」「真善美や愛や幸福もイリュージョン」という話が続く。

また、何度も「受動意識仮説」という言葉が出て来る。「機能的な「意識」は、「無意識」下の処理を能動的にバインディングし統合するためのシステムなのではなく、既に「無意識」下で統合された結果を体験しエピソード記憶に流し込むための追従的なシステムに過ぎない」ということなのだそうだ。

「当然といえば当然だが、「痛み」などという物理量は宇宙のどこにも存在しない。痛みは、その機能も現象も、人間がそう感じると都合がいいから、進化のある段階で脳が発明したものなのだ」
「脳は一千億個という限られた神経細胞から成るので、何かが得意だと、他の何かが苦手なのは妥当だろう」
「色や明るさは目と脳が作り出したもの」
「感覚がなければ、宇宙など、ないも同然だ」
「釈迦の思想と、受動意識仮説は似ている点がある」
「もともと何もないはずのところに心や物が今あるように思えているという奇跡的な「儲けもの」のイリュージョンを静かに楽しもう」
「イリュージョンである欲深さのばかばかしさに気付き、生かされている刹那に「満足」している人生は、幸福だ」

すべてはイリュージョンである、とするそのイリュージョンとは、幻影・幻想・錯覚。とても儚い話だけれど、徐々に納得せざるを得ない。そして「瞑想の境地」と「悟りの境地」は別物だという。僕はゾーンは悟りの境地の一種だと思っていたけれど、どちらかというとゾーンは瞑想に近そうなので、そうなると悟りとゾーンは分けられるものである。そのあたりを著者に会って聞いてみたいなぁと思う。果たして叶うだろうか。

著者の同僚の慶大武藤浩史教授が「解説」で大学教員のことを

「専門「分野」を突き詰めてゆくと、大切な真理を追究しているのか重箱の隅をつついているのか、分からなくなってきます。そこで、重厚な真実を追究しているつもりで重箱の隅をつついている「物知りボウヤ」が一定の割合で誕生します」

と書いていて、自らを含めて端から客観視しているところが微笑ましく、その感覚は前野教授にも繋がっている。

日々本 第228回 針谷和昌)

hariya  2013年4月19日|ブログ