日々本 其の三十六「怒り」

『FUKUSHIMAレポート  原発事故の本質』
(FUKUSHIMAプロジェクト委員会 水野博之,山口栄一,西村吉雄,河合弘之,飯尾俊二,仲森智博,川口盛之助,本田康二郎/日経BP)



著者たちは怒っている。この本では実際には淡々と冷静に状況を科学的に解析していく。その丁寧な作業の末に事実が判明してくるのだが、その大変な作業の動機となっているのが、大企業・東電の経営者たちに対する怒りである。著者のひとりの水野博之(FUKUSHIMAプロジェクト委員会 代表発起人)は松下電機産業元副社長。同じ大企業の元経営者としての矜持が、このプロジェクトを立ち上がらせ、この本を書かせた大切な動機になっているのではないか。実際に東電経営者たちの責任を追求する第1章の執筆責任者は山口栄一(同委員長)である。この人は同志社大学 技術・企業・国際競争力研究センター副センター長。研究者としてのプライドが、次の文を書かせていると思う。

「現象が物理限界を超えたとき、人間はもはやそれを制御できない」という「技術経営」の根本原則を経営者が知らなかった、ということではないか。であるなら彼らは、経営の根本能力(コンピタンス)を持っていなかったということになる。そんなことが、この成熟した先進国の一流企業の、立派であるべき経営者にあり得るのだろうか。この、心の底から素朴な疑問を、私はどうしても解きたいと思った。

あの数日間の間に起きていたことを検証すると、福島第一原発2号機・3号機の事故に対して、東電の経営者たちは刑事責任に問われるべきだと言う。この2つの原発に関しては、もっと早くベントして海水を注入することが出来た筈で、そうすれば今回の事故被害はかなり小さめのものになっていたという。廃炉になることを恐れて制御不能な状況に陥るまでそれらを引き延ばしてしまった経営者たちは、その責任を取るべきだと言っている。

さらにまだ事実がはっきりしない1号機にも疑惑がある。震災から2ヶ月経った5/15に「実は1号機のメルトダウンが3/11に始まっていた」という発表がされ、各マスコミでも大きく取り上げられた。この時に発表された「解析結果」と書かれたグラフには小さな文字で「主要な解析上の仮定:15時30分頃の津波到達以降、非常用復水器系の機能は喪失していたものと仮定」と書かれているという。おそらく、この仮定は事実と異なり、メルトダウンはこの時にまだ始まっていなかったと研究者である著者は書いている。

仮定の話をタイミングを見計らって発表した東電には、メディアに「東電がメルトダウンを隠していた」ということをクローズアップさせることによって、やはり海水注入が遅れた責任を追及されないという動機が見え隠れしているのだ。そのことを当時のメディアは追求せず、仮定を事実のように報道した。そしてこれまでにも、この事故の調査レポートがたくさん出版されていて、著者が参考にした22篇の中にも、この海水注入の意思決定をしなかったという本質的原因に触れているのは、たった1つしかないという(『原発危機の経済学』(齊藤誠)のみ)。こういう現象は、実はJR福知山線事故の時にも起きていて、今回の事故とこの時の事故の事例に、日本社会の危うさを嗅ぎ取るとも書いている。

日本にあっては、会社の経営者とは社員(従業員)が昇進したあげく最後になる職位。日本はボトムアップ型社会なのだから、会社の運営はみんなで、全体でやっていく。だから経営者の役割は全体を調整すること。リーダーシップをとる必要はない。そのような空気が、会社経営において支配的なのだろう。そのため、経営者の下した意思決定(ないしは意思不決定)の責任を社会が問う、というコーポレート・ガバナンスの意識が欠落しているのではないだろうか。

「意思不決定」という言葉に強烈な皮肉を感じる。そしてこの文章の「会社」を「組織」に置き換えて考えていけば、前回書いた僕の疑問もだいぶ解消できそうな気がする。

さて、ここまでで全503頁の大著のまだ第1章(メルトダウンを防げなかった本当の理由)。この章を最後に著者はこう書いている。

日本は、この事故をきっかけにして図らずもブレークスルーの機会を与えられた。

日々本 第36回 針谷和昌)

追記)
[1] 3.11前の原発マニュアルも、そして保安院が東電に作らせた事故後の安全運転マニュアルも(この期に及んでも)、廃炉回避が優先されているという。

[2] ヨーロッパのベント管には放射性物質の外界への放出量を1/100にするフィルターが取り付けられているという。なぜ日本には取り付けられていないのか?

hariya  2012年3月01日|ブログ